左手に見えて来た赤い門が訪ねてきた「摩尼珠山医王院 松虫寺」の仁王門だ。


七仏薬師は仁王門にあった張り紙によれば三十三年に一度しか開帳されないという秘仏で、次回の開帳は平成24(2012)年だそうだ。

松虫寺の建立は745年と伝わっているそうだが752年に建立された奈良の東大寺よりも7年早いことになる。

その松虫姫の遺骨の一部が埋葬されているのが薬師堂の右裏手にある松虫皇女之御廟で、石碑の裏側には宝亀二(771)年二月十二日と刻まれているそうだが確認することができなかった。
松虫皇之女御廟と石碑。



この一画多い字形を異体字の一つとして収録している漢和辞典があったが、その意味については説明がなかった。
この神額の字形を勝手に憶測する。虫の正字は「蟲」で「虫」は「まむし」など蛇の意味もある。そこで松虫姫神社の神額に蛇の意味を持つ「虫」を用いるのを嫌って、一画多いこの字形を使ったのではないだろうか。
う~ん、それなら何故正字の「蟲」を使わなかったんだろう。


以下に碑文を転載する。

松虫寺は奈良時代、聖武天皇の天平十七年(七四五)僧行基の開創と伝えられ、始め三輪宗、のち、天台宗、そして、真言宗に所属し今日に至っている。寺伝によれば、聖武天皇の皇女松虫姫、(不破内親王)が重い病に患られた時、不思議な夢のお告げにより、下総に下向され、萩原郷に祀られていた薬師仏を祈り、重患が平癒したので、天皇は、行基に命じて七仏薬師を刻み一寺を建立し、姫の御名をとって松虫寺と名付けられたという。
現在の本尊、七仏薬師如来は榧材の一本造りで、平安後期の特色を伝える優作として、昭和三十四年、国の重要文化財に指定された。
南面する仁王門、薬師堂は江戸時代、享保三年に改築されたもの、山号額は儒者、佐々木文山、薬師堂の扁額は、釈雲照の染筆である。
西面する本堂は、寛政十一年の建立で、阿弥陀如来、不動明王、松虫姫尊像をまつる。
薬師堂の裏手の松虫姫御廟は、御遺言により分骨埋葬されたものと伝えている。
平成八年七月、摩尼珠山、医王院、松虫寺
(句読点、括弧は原文のまま)
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